黒岩祐治さん × 平澤創 [対談]

フェイス25周年記念Webサイトスペシャル対談企画5

「いのち」輝かせ、「心豊か」に生きる。
黒岩祐治さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創

社会問題を知ってもらい、世論を喚起する。
それがメディアの仕事。
平澤 創(以後平澤)
本日は、フェイス創立25周年スペシャル対談のためにお時間をいただきありがとうございます。
黒岩祐治さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
黒岩 祐治さん(以後黒岩)
初めて平澤さんとお会いしたのは12、3年前、当時、僕がプロデューサーをしていたミュージカル「葉っぱのフレディ」のスポンサーを探していた時でしたね。
平澤
そうですね。黒岩さんはフジテレビ「報道2001」のキャスターでいらして、医療をテーマとしたキャンペーン報道に力を入れていらっしゃいました。最初に、この辺りのお話しをお伺いできますか。
黒岩
元々、僕はディレクターやプロデューサーとして制作現場に関わりたくて、フジテレビに入社しました。ところが意に反して最初の3年は営業、そこから報道へと進みました(笑)。
平澤
そうだったんですか。
黒岩
その後、政治部や社会部の報道記者、ノンフィクション番組のディレクターなどを経験した後、当時の編集長から、「記者、ディレクター、キャスターの三役を」と言われ、キャスター生活がスタートしました。それが1988年、33歳の時です。番組の放送時間は土日だったので、月曜日から金曜日は自らのテーマで、好きに動けばいいと言われ、それは面白いと思ったのでお受けしました。そうしていろいろな方にお話をお伺いする中で出会ったのが、救急医療というテーマだったんです。当時、日本では、救急車は患者を運ぶことしか認められていませんでした。アメリカには救急車の中で医療行為をするパラメディックという救急隊があり、フランスでは救急車に医師が乗るドクターカーが普及していました。しかし、なぜ日本の救急車は運ぶだけしかできないのかという疑問を持ち、納得できない感覚があった、これが僕の医療との出会いです。なぜ他国のようにできないのかと聞くと、「それは医師以外の人間が医療行為をするのは医師法違反だからだ」と言うんです。ちょっと乱暴かもしれないけれど、「医師法違反になるのであれば、法律を変えればいいじゃないか、そのために国会があるんだろう」と思いましたね。そのために、みんなに問題を知ってもらい、世論を喚起する、それがメディアの仕事だと考え、救急医療にテーマを絞ったキャンペーン報道「救急医療にメス」をスタートさせたんです。
平澤
その話を初めて伺った時、今では一般的に知られるようになったドクターカーやドクターヘリも、その存在があるのは、黒岩さんたちの取り組みが世論を動かしたからだと思いました。
黒岩
行政で最初に動いたのは、東京消防庁です。今で言うAED(自動体外式除細動器)を救急車に乗せることを決めた。その後、厚生労働省と総務省消防庁が動き、最終的に救急救命士制度ができたわけです。医師会は救急隊が医療行為の一部を行うことに反対していたけれど、世論が盛り上がったことが大きな支えとなり、救急救命士法が作られた。素人であっても納得できない感覚に徹底的にこだわると、世の中、変わるものだなという、ある種の成功体験になりましたね。
平澤
本当に世の中が大きく変わりました。その話はもっと自慢していいんじゃないかなといつも思っています。
黒岩
(笑)。このキャンペーン報道は、2年間で約100回の放送を重ね、日本民間放送連盟賞や放送文化基金賞もいただいたんですよ。
問題を提起し、解決に導くという考えは、
 ジャーナリズムと言うより、ポリティクス。
平澤
報道という仕事の中で実績を残したという話で終わりになりそうですが、それだけでは終わりませんでしたね。
黒岩
確かに。むしろ、僕の原点は、もしかしたら報道そのものではなく、世の中を変えることにあったのかもしれないですね。
平澤
ああ、なるほど。
黒岩
スーパータイムで一緒にキャスターを務めた安藤優子さんと「キャスターとは何か」という話をした際、彼女は「私は日本一の野次馬だ」と言ったんです。例えば、街を歩いている時に、人が集まってワイワイやっていたら気になってしょうがない、その話の輪の中に真っ先に飛び込み、何があったのか聞き、わかったらいち早く輪を抜けて、「ここでこんなことがあったんだよ」とみんなに伝えたい、それが自分のキャスターとしての喜びだと言うんですよ。それを聞いて愕然としました。僕はそんなことに全く興味がなかった。自分が輪の中に入っていこうとは、まず思わない。輪から出てきた人に何があったのかを聞いて、その後、どうしてこうなったのか、どこに問題があるのか、どうすればこうならなかったのかと解決する方に関心がある。そう伝えたら、「それはジャーナリズム(報道活動)より、むしろ、ポリティクス(政治活動)ではないですか」と言われたんです。なるほどな、と思いましたね。僕を突き動かす報道現場における喜びは、おかしな状況を報道することで、おかしくないようにする、変えていくことであって、報道はそのための手段であり、伝えること自体が目的ではなかった。今思えば、ポリティクスと言われたのは、非常に鋭い指摘だったのかもしれない。
平澤
確かにそうですね。その話をお伺いすると、黒岩さんが今、なぜ県知事なのか、すごく腹に落ちます。もともと潜在的にお持ちの世の中を変えるという強い想いに原点があったのかもしれないですね。
黒岩
鋭いですね。僕の父親は鹿児島出身なのですが、そのことを大変誇りに思っていました。僕自身は神戸生まれだけれど、「お前は薩摩隼人だ」と言われて育ちました。近代国家としての日本は薩摩隼人が作った、薩摩隼人は、私(わたくし)を捨て、公のために生きる、世のため人のために働き、歴史を作るんだと小さい頃からずっと聞かされて育ったので、そうした想いが自分の中にも根付いていったんですね。将来、何になればそうした仕事ができるのかと考えて、「それは政治家かもしれない」と思いついた。だから僕は、小学校2年生の頃から、将来は政治家になりたいと言っていたんです。
平澤
そんなに早い時期から考えられていたんですね。
黒岩
うちの家系は政治とは全く関係なかったし、当時、そんなことを言う子供は非常に珍しかったと思いますよ。大学時代は政治家を目指して、早稲田大学の雄弁会に入りました。けれど、大学4年間で考え方が変わった。僕は、世の中のおかしなことを正しくするとか、困った人を助けるとか、そうしたことが政治だと思っていたのに、実際は権力闘争とか、抗争とか、ドロドロの中を生き抜いていかないといけないと知って、「ああ、僕には全く向いていないな」と思ったわけです。そうしてある時、テレビを見ていたら、「皆さまのお困りごとをお寄せください」と言っている番組があったんです。例えば、「あの家の柿の木の枝が道に大きく迫り出していて危なくて困っている」という投稿があったら、実際に取材に出かけ、その家主に「困っていると言っている人がいる」と伝え、解決していく番組だったんですけど、テレビはそういうことができるんだ、僕にとってはこれこそが政治だ、という思いになりましてね。入社試験の面接の際、「どうしてフジテレビを受験したのか?」と聞かれ、「僕はもともと政治家になりたかった。困ったことがあれば変えて行く、新しく作り変えて行く、それが政治だと思っているけれど、政治家になったらそういうことはできないかもしれない。でもテレビにはそういう可能性があると思います」と言ったら、みんな驚いていました。
黒岩祐治さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
平澤
満点の回答ですね。それは入社試験パスしますよ。私が試験官だったら、即採用です(笑)。
黒岩
それで採用されたものだから、どこに配属されるかなと楽しみにしていたら営業だった(笑)。
真剣にテーマと向かい合う中で
心響き合う出会いがあった。
平澤
その後も医療の分野を掘り下げて、取り組まれましたよね。今では一般的に知られるようになった「未病」という概念も、日本人が誰も見向きもしない黎明期の頃から、ずっと言い続けていらっしゃった。
黒岩
医療分野における取り組みは、患者の立場、家族の立場から納得感のある医療を目指そうということです。医学の専門家ではない僕たちが外からの目線で、どういう医療がいいのかを考え、訴えていく。それは医学の専門家の視点と全然違うから、すごく重要なことだと思ったんです。平澤さんにも参加していただいた医療システム研究会も、そうした視点で医療の世界を変えていこうじゃないか、という取り組みでしたよね。救急救命士制度がスタートした後、「今度はナースの問題にも取り組んで欲しい」という手紙をいただいたんです。当時のナースの位置付けは、あくまでも医師のお手伝いさんだった。そこには、患者目線が入っていないんです。患者からしたら、ナースの方が自分に近いところにいて、お医者さんはその向こう側にいる。そういう視点からナースの位置付けを変えていこうと、自ら企画書を書いて「感動の看護婦最前線」という番組を立ち上げました。その時、スタジオコメンテーターとしてご協力いただいたのが、当時、聖路加看護大学の学長だった日野原重明先生です。そのご縁の中で、僕が日野原先生から受け継いだのがひらがなで書いた「いのち」という言葉です。
竹下景子さん、名取裕子さん、紺野美沙子さんたちに看護の現場で取材してきてもらったことを放送するゴールデンタイムの2時間番組で、半年に1回、12年間続きました。全17シーズン、最高視聴率は21%超という人気番組になり、民間放送連盟賞も2回受賞して、当時、「フジテレビの良心」とまで呼ばれたんですよ(笑)。
平澤
そうなんですね。
黒岩
その延長線上で、たまたま出会ったのが「未病」の概念です。もともと僕には、病気を叩き潰そうとする、病気を攻撃する西洋医学・医療は、患者・家族の幸せに繋がっているのかなといった想いがずっとあったんです。もちろん、西洋医学を否定するつもりはないけれど、我々にとって大事なのは「いのち」であり、「病気を治すことよりも、いのちを輝かせることの方が大事だ」とナースの取材を続けている中で思っていたんです。するとある時、自分の父親が癌になったとわかった。12cmの肝臓ガンで、40以下が正常値と言われる腫瘍マーカー値は5,200という末期の状況でした。そうした時に、たまたま出会ったのが天野暁(劉影・りゅういん)先生でした。まずは漢方の哲学を理解してほしいと言われ、最初に「未病を治す」という概念を教えていただきました。「未病を治すと言っても父親は未病じゃなくて末病じゃないか」と思ったけれど、「未病を治すとは、気を補って、いのちの力を蘇らせて、体の状態を良くしていくことに全力をあげることだ」と言われて納得しました。西洋医学的な言い方をすれば、免疫力を高めるということでしょうね。病気を叩き潰すことに躍起になるのではなく、最後の最後までニコニコ幸せに生きて、笑って最期を迎える。死なないようにするのではなく、最後まで元気でいることを目指そう、と。そうして「医食同源」の考えに基づく生活改善法の実践と漢方薬の処方などにより、半年後には12cmの腫瘍は3cmになり、5,200の腫瘍マーカー値は20にまで下がり、完治してしまった。「未病を治す」という概念は、非常に大きな力を持っていると実感したんです。
平澤
今では、免疫システムの話に必ず未病の概念が出てきますよね。その出会いは、お父さんのご病気があったからこそだったんですね。
黒岩
実体験としてあるから、話す時も熱がこもりますよ(笑)。
「葉っぱのフレディ」は、
いのちの本質と向き合うミュージカル。
平澤
ミュージカル「葉っぱのフレディ」の企画・原案者でもある日野原先生との出会いについてもお伺いしようと思っていたのですが、この「葉っぱのフレディ」の世界観は、当時、黒岩さんが取り組んでいらっしゃった医療の世界観にすごくマッチしているというか、非常に近しいですよね。
黒岩祐治さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
黒岩
全くその通りです。日野原先生との最初の出会いは、救急医療キャンペーンでインタビューをさせていただいた時でした。「医療行為は医師しかしてはいけない」と医師会が医療行為のできる救急隊の創設に反対している中で、日野原先生は「すでに開拓され、ある程度わかってきた技術は、どんどん他人に譲っていけ。医師たるもの、未開なる分野に挑戦し、フロンティアをどんどん開拓していくべきだ」と見事な答えをくれました。今、救急医療で行われているのは、心臓が止まった患者に対して処置する心臓への電気ショック「AED」、気管にチューブを通して呼気を送り込む「気管挿管」、それから輸液で血管を確保する「点滴」の3点です。これを病院到着前にしていれば助かる確率が上がるとわかっているのに、「それを医療行為だと言って医師が独占しようという発想がおかしい、教えたらいいじゃないか」ってね。ものすごく開明的な先生だなと思いましたね。
平澤
「葉っぱのフレディ」は、「いのちは循環していく」というストーリーを通して、いのちの本質、大切さといった、非常に深いメッセージがたくさん込められているミュージカルですよね。
黒岩
原作は、アメリカの南カリフォルニア大学の教育学者レオ・バスカーリア教授が書いた一冊の絵本で、春に生まれ、夏には木陰を作り、秋には紅葉し、冬に散っていく、そうした葉っぱの一生を描いた、ただ、それだけの話です。冬に葉っぱが散るということは死を意味するけれど、死んで終わりではなく、土壌を豊かにし、春になったら新しいいのちになって巡ってくる、と。そのシンプルなストーリーを観ている人それぞれが自分のこととして受け取り、死ぬってどういうことなの?生きるってどういうことなの?と自らの生死に向かい合うことができる作品です。
平澤
ミュージカル公演が実現するまでの話も聞かせていただけますか。
黒岩
2000年のある日、突然、日野原先生が「黒岩さん、僕ね、『葉っぱのフレディ』をミュージカルにすることにしました。黒岩さんも協力してください」とおっしゃるので了承したところ、翌日早速、絵本の翻訳者のみらいななさんから電話がかかってきました。「日野原先生から聞きました。ミュージカル公演、黒岩さんが協力してくださるとのことでありがとうございます」って。「はい、協力しますよ。今、どこまでできていますか、プロデューサーは誰ですか」と聞いたら、「え?プロデューサーって何ですか」とか言うわけ(笑)。
平澤
それは大変だ(笑)。
黒岩
さらに「今、劇場を探しているのですが、帝国劇場には空きがないって言われました」って。いきなり帝国劇場を当たるって、この人何者だ、ってね。よくよく聞いてみると日野原先生が書かれた台本があるだけ。それなのに「帝国劇場はダメだったけれど、2,000人が集客できるホールを3ヶ月後の1日だけ押さえました、後は黒岩さんに全てお願いします」って(笑)。「そんなことできるわけがない」と断ったけれど、毎朝、「何とかなりませんか。日野原先生、すごく楽しみにされています」って電話がかかって来るんです。どうにもならないと言っても諦めてくれない。ある時は、「日野原先生が全国の講演会で黒岩さんがやってくれるって言いまくっていますよ」って。ある時は、「喜んでください。三笠宮殿下がお見えになることになりましたから」って。
平澤
追い込みますね(笑)。
黒岩
そう、どんどん追い込まれていって。僕、実は大学時代、雄弁会のほかに早稲田大学のミュージカル研究会に入っていて、ミュージカルを演じていたんです。そこで当時のメンバーでプロになった友人がいたので相談したところ、鼻で笑われましたよ。ミュージカルは、曲を作らなくちゃいけないし、曲を作るためには、詞を作って曲をつけて、演奏して、歌わないといけない。ダンスも作らなくちゃいけないから、普通の芝居よりも手間暇かかるんです。「黒岩さんも一緒にミュージカルやっていたんだから、無理だとわかるでしょ」ってね。でも断れないって粘ったら、「何かの縁かもしれないからやってみましょう」ということになって。そこから2ヶ月半、議論する間も無く、喧嘩する間も無くブワーッと作り上げた。公演当日は日野原先生の舞台挨拶から始まりましたが、先生、あまりの嬉しさに5分間の予定が25分も話しちゃったの。幕の向こうではこれから芽吹く葉っぱとして、じっと待機している子供たちがいるのに。子供たち、待ったまま寝ちゃいそうになってさ。ところが、幕が開いたら、それはもう完璧なミュージカルが出来上がっていたんですよ。日野原先生、本当に喜んでね。それで何を言うかと思ったら、「黒岩さん、やればできるじゃないか」って。
黒岩祐治さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
平澤
(笑)。そうしたお話も含めて、本当に素晴らしいミュージカルでした。
「生きることは、夢を見続けること」
夢の実現のお手伝いを通じて
ありえない体験をさせてもらった。
黒岩
突貫で作り上げたものだったので、次の年は、ちゃんとやり直そう、少し作り替えようと臨んだけれど、ほとんど変えるところがなかった。これはもう神の力だと思ったんですが、完璧なものが出来上がっていたんです。その後、全国公演へと広がって、結果的に15年間、続きました。その間、スポンサーがいないと前に進まないという局面になった時、偶然、出会った平澤さんが関心を持ってくださり、フェイスがスポンサードしてくれて本当に助かりました。
平澤
このお話って、多分、黒岩さんがミュージカル研究会にいらっしゃらなかったら実現できなかった話で、本当に偶然の巡り合わせですよね。知事になられた時もそうですし、何か、全ての歯車が揃って物事が動いてしまう時ってないですか。
黒岩
そうそう。日野原先生は僕がミュージカルをやっていたことを知っていたわけじゃないんです。本来なら、これ以上の無茶振りはないのですが、偶然にも僕が持っていた引出しの一つを活かすことができた。
平澤
条件が揃って様々なことがうまく回り出すことって、事業の世界でもあるんです。たくさんの人たちの色々な準備が整ったということだけではない、神業的なものが働く時。そして一つの大きなものができるっていう時があります。
黒岩
そう。ある種の「一つの同じ想いの中に一緒にいた」ということですよね。
長年、番組をご一緒させていただく中で、日野原先生がずっとやってこられた「いのち」と向き合う気持ちが僕の中にしっかり入ってきて、同じ想いになっている時に、それがたまたまミュージカルという形になって、パッと花が開いた、そう感じます。
平澤
気持ち、時間、いろいろな条件の組み合わせがカチっと揃って、事が成される瞬間ですよね。それにしても、ミュージカル「葉っぱのフレディ」が、そんなに短期間で作られた作品だったとは。かなり念入りに練られたものだと思っていました。
黒岩
葉っぱの一生を描いただけの本当にシンプルな作品でなぜこんなに感動するのか。それは、あの中に「いのち」の全てが凝縮されているからだと思うんです。ハラハラと葉っぱが散る時には観る方も、演じる方もみんな泣き、春になり蘇ってくると救われる感じ。
平澤
そうなんですよ。このミュージカルは、人が生きていくことにおける普遍的なテーマを取り上げ、しかもストーリーがシンプルだから、子供も大人も楽しめる。私は不朽の名作だと思っています。
黒岩
自分でもバカじゃないかと思うんだけれど、観るたびに泣くんですよ(笑)。
平澤
わかる気がします。
黒岩
心が震えるというかな。人間の感性って面白いもので、心が震える感動があると、次なるステージにつながる何かが生まれるという感覚が湧き上がってくるんですよ。
平澤
自分の原点というか、生きていくことに対しての考えとか、そうしたものがすごく表現されている素晴らしいミュージカルでした。ニューヨーク公演もされましたね。
黒岩
そうです。日野原先生の夢は限りなくてね(笑)。いのちが巡るという考えは東洋的思想だと思っていたので、ニューヨークに持って行くのはある種の挑戦でした。日本ではブレイクしたけれど、うまく伝わるかな、と。結果、幕が降りた瞬間、全員がバネのように立ち上がってスタンディングオベーションでした。みんな泣いていて、洒落じゃないけれど、青い目の人たちが目を真っ赤にしていました。ここでも普通ではありえない体験をさせてもらいました。
全ての歯車が揃って物事が動く。
神奈川県知事にもなるべくしてなった。
平澤
2011年には神奈川県知事になられました。当時、神奈川県知事選に出馬されると伺った時は正直少し驚きました。
黒岩祐治さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
黒岩
僕にとっても青天の霹靂でした。僕は、キャスターという仕事が大好きで天職だと思っていたので、フリーになってもっと大きく羽ばたきたい、挑戦してみたいと思い、2009年、入社時の定年である55才になった年にフジテレビを退社しました。医療システム研究会の縁もあって、国際医療福祉大学大学院で教授を務めさせていただいたのですが、ある時、池上彰さんがテレビ出演を減らすという話がありました。その後任には黒岩が最適だ、とある有名なテレビ評論家の方が新聞に書いてくれたんです。それこそ最もやりたい仕事でしたから、オファーを待っていたんです。4月の新番組なら2月にはキャストが発表されるものですが、2月28日が過ぎてもオファーは来なかった。ガックリしたその翌々日の3月2日、突然、神奈川県選出の国会議員から電話があり、「神奈川県知事選に出てください」と言われたんです。僕の最初の一声は、「え?神奈川で知事選挙あるの?」でした。
当時は、石原前都知事が再選を目指さないということで、東京都知事選に誰が出るのかの話題で持ちきりだった。その中で3選を目指し、出れば当選確実と言われていた松沢前県知事が3月1日に突然、東京都知事選に出ると公表した。それを受けてのオファーだったんですね。「僕は、権力闘争は嫌いなんだ」と断ったのだけれど、「神奈川県は大丈夫です。政党の枠を超えてみんな一緒になってやっています」と口説かれて、どうしようかなと考えていた時に、3.11東日本大震災が起きたんです。
平澤
そうだったのですね。
黒岩
これはもう運命だなと自分の気持ちがガラっと変わりました。知事の仕事は県民の命を預かる仕事です。900万人を超える県民の命を預かる仕事、このタイミングでこの話が来ているのは、まさに天の声だ、背くことはできないと思いましたね。
平澤
ここまでの一連のお話を伺っていると、これは本当に出るべくして出た、なるべくしてなったタイミングだったと痛感します。本当に運命ですね。
黒岩
運命だと感じました。
平澤
それまでずっと知事になるための準備をしていたとしか思えないですよ。
黒岩
そう。恐ろしいことに、今、ここから自分の人生を振り返ると全て繋がっています。医療の取り組みから、未病から、ミュージカルの「いのち」からも。今も平澤さんに協力をいただいて、神奈川県をミュージカルが溢れる地域にしようという取り組みをしていますが、これも全部、繋がっている。これはもう大変な驚きですよ。
世界中に「ME-BYO」を発信、
超高齢社会を乗り越えるモデルを構築して
日本を変えていく
平澤
知事になられてからのお話もお伺いしたいのですが、今年で何年目になりますか。
黒岩
7年目になります。
黒岩祐治さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
平澤
今、黒岩さんが考えられている知事としてのプランのなかで、変えていかなければならない課題は多いですか。
黒岩
そうです。地方の自治体を任されるようになって、まず感じたのは、国政とシステムが全然違うということなんです。国は議院内閣制、選ばれた国会議員の中から総理大臣が選出される。そして霞が関は全く別にある。ところが地方というのは、知事は知事選挙、議員は議会議員選挙で選ばれる二元代表制、一種の大統領制であって、役所の位置付けも全然違います。地方自治には国政でいうところの大臣がいません。その役職に当たるのは各局長です。知事は、その全ての人事権を持っている。ですから、霞が関の官僚に当たる部分を直接、ガッと動かせるわけです。ということは、議会とともに、県が一つにまとまって動けば、国ではできないようなこともバンバンやり遂げていけるじゃないか、そうであれば国としてなかなか動けないところ、時間がかかって動かせないことをやるべきだと考えた。キャスターとして国政を見てきた中で、国政では前に進めるのも難しいことがたくさんありましたからね。超高齢社会が圧倒的に進んでくる中で、これまで通り病気を叩き潰す医療でこの社会を支えられるのか、いや無理だろう、それなら「いのち」を輝かせる医療に変えていかなくてはいけないと思いました。医療の世界を変えるのはどんなに大変なことか、ものすごくよく知っていますしね。だから、この神奈川で独自の超高齢社会を乗り越えるモデルを作ろうと考えた。それが僕の一番大きなミッションだと思っています。知事選に立候補した時のキャッチフレーズは、「『いのち』輝く神奈川を作る」ですから。もう一つは、「惹きつける力を持った神奈川にする『マグネット神奈川』」。
平澤
そして、その取り組みを次々と具体化されていかれました。
黒岩
そう、これらの取り組みに、よりパワフルな力を与えるには、特区の活用が重要になると考えました。国の規制下ではできなくても、その規制を外した特区ならできる。この仕組みを徹底的に使うと決め、そして必死にコンペを勝ち抜いて3つの特区を獲得しました。一つ目は、京浜臨海部のライフイノベーション国際戦略総合特区、再生細胞医療の拠点ですね。それと、二つ目は、神奈川県の真ん中、相模原や厚木、藤沢のあたりにさがみロボット産業特区を作りました。三つ目は、神奈川県全域が国家戦略特区になっているヘルスケア・ニューフロンティア構想です。未病コンセプトと最先端の医療技術をドッキングさせて、未病状態から改善させ病気にならないようにする、それを科学的に進め、超高齢社会を乗り越えるモデルを作ろうという取り組みです。先ほどから平澤さんがおっしゃられている通り、当初は「未病なんてわけがわからない」と理解されず、多くの人に反対されましたが、それでも「未病だ、未病だ」と言い続けてきました。日本の中だけで変えていくのは大変だと思い、海外戦略もスタートさせたところ、まず、シンガポール政府が面白いって言ってくれた。世界を回るとよく分かるのですが、高齢社会の進み方が最も早いのが日本であり、その中でも、特に進行スピードが早いのが神奈川県なんです。ですから、ここ神奈川県で超高齢社会を乗り越えるモデルを作ることにみんなの関心が高いんですね。シンガポールに始まり、アメリカのマサチューセッツ州、メリーランド州、大学では、ジョンズ・ホプキンス大学やスタンフォード大学、そのほか、フィンランド、イギリス、ドイツなどの各地で次々にMOU(了解覚書)を結び、最後はWHO(世界保健機関)と結びつきました。そうして「未病サミット神奈川2015」を実施したところ、世界中から未病の専門家が集まってきました。まあ、本当は未病の専門家なんていない(笑)、超高齢化の専門家の先生たちですね。
そうしているうちに、国際会議でも「ME-BYO」という言葉が使われるようになってきて、世界的な権威の科学雑誌「Nature」が2度にわたって特集してくれました。2015年と2017年に開催したサミットも、「ME-BYO Summit Kanagawa」と英語表記にしています。
平澤
知りませんでした。
黒岩
すると、権威の世界でどんどん浸透していって、G7の保健大臣の国際会議の中で、WHOの方から「ME-BYO」という言葉が出た。それを聞いた日本の厚生労働大臣はびっくりしたらしいけど、そういうことの積み重ねで昨年2月、政府の健康医療戦略の中に「未病」という言葉が入るに到ったんです。
平澤
そんなきっかけがあったんですね。
黒岩
漢方の世界では昔からあった未病という言葉を今風に解釈して広めたのが僕たちだったということです。真っ白な健康と真っ赤な病気があるのではなくて、連続的に白から赤のグラデーションで変化する、このグラデーションが未病であり、グラデーションのどこにいても、少しでも白い方に持っていこうとすること。そのために「食」・「運動」・「社会参加」が必要だ、という考えです。
神奈川県をさらに魅力ある観光地にするために。
平澤
ところで、文化芸術による賑わいを創出する「マグカル(マグネット・カルチャー)」にも取り組んでいらっしゃいますね。
黒岩
僕がミュージカル好きだという話は先ほどもしましたが、例えば、ブロードウェイに行けば、必ず面白いものをやっていて、世界中から人が集まって来ています。そうしたエンターテインメントが持つ力を僕は非常に評価していて、神奈川に行けば、必ず面白いものが見られる、そんな風にしたいと考えたわけです。平澤さんの力も借りて、少しずつ動いてきていますけどね。
平澤
この問題は非常に深いですよ。2020年に向かって、ますます訪日外国人を増やそうと国も謳っていますが、ブロードウェイが盛り上がっている理由は、ナイトタイムエコノミーの観点から考えると、遅い時間帯にも普通に公演があるということだと思うんです。仕事が終わってから観に行くこともできるし、さらにその後、食事ができる場所もある。地下鉄も24時間動いている。つまり、街全体を挙げてエンターテインメントを盛り上げていく素地ができているということです。ですから、日本も2020年に向けて、世界に恥ずかしくない街づくりをしていかないといけない、それはもう待ったなしだなと思います。
黒岩
そうですね。まさにおっしゃる通りで、エンターテインメントによって人を惹きつけるという取り組みは、大きな観光の目玉にもなりますし、経済活性化のためにとても大きな力が働くことになりますからね。
平澤
東京オリンピック開催の前に、神奈川県ではラグビーワールドカップが2019年に開催されますよね。世界3大スポーツイベントの一つであるラグビーワールドカップの開催に向けて、どの様な取り組みをされているのですか。
黒岩祐治さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
黒岩
ラグビーワールドカップ2019の決勝戦と準決勝戦の2試合、この最高の試合が横浜で開催できる、これはすごいことですよ。日本ではそのすごさがあまり理解されていない気がするのですが、ワールドカップを目掛けて世界中からお客様が集まります。しかも、ラグビーワールドカップ観戦者は、高額なホテルに泊まり、高額なディナーを食べる、そうした富裕層が多く、滞在期間は平均20日間に及ぶと聞いています。その間、ラグビーの試合は3試合くらいしかない。あとの時間は観光をされるわけで、その観光需要を取り込むために、観光地の魅力を高める取り組みを進めています。
平澤
なるほど。今、神奈川県として推していらっしゃるスポット、エリアなどはありますか。
黒岩
横浜、箱根、鎌倉は、皆さんが知っている世界に誇れる観光地です。三つ以外にもないかと、知事就任直後、僕らが若い頃、憧れていた大磯や都心から近いのに自然が豊かで人気だった城ヶ島を訪ねてみたところ、最高のロケーションで、海の景観もすごく素晴らしいままなのに、当時の輝きはなく、すっかり寂れ果ててしまっていました。僕がマグネットという言葉を使うのは、地域再生にはマグネット力、つまり惹きつける力が必要だと思っているからです。そこを訪れたくなる魅力が本当にあるのかといえばあるんだけれども、それが見えるようになっていないというのが多いんです。地元の人がその魅力に気づいていないというのがよくあるんです。だから、そこに住んでいる人たちの目線ではなく、外から見た人の視点が必要なんです。
平澤
わかります。
黒岩
それともう一つ、廃れてしまっている地域は、中で戦っていて、力が一つになっていないんです。なかなか一枚岩になれない。なぜそんなことをしているかと言えば、「まあ、そんなに人が来なくても、街が潰れてしまうことなんてない」と誰も危機感を持っていない、本気になっていないからです。そこで、再生に向け、どうしたら地域を本気にさせることができるかと考えた時、これは競争しかないと思いました。そこで、横浜、箱根、鎌倉に続く、神奈川県の第4の観光の核を作る、そのために県が1億円の予算をつけて、全面的に支援すると言ってコンペを開催しました。ところが、1回目のコンペは該当者ゼロ。みんな真っ青になっちゃった(笑)。もう一度チャンスをということで再開催したら、今度はみんな真剣にプレゼンしてきました。さらなるコンペを経て、最終的に城ヶ島・三崎、大山、大磯が選ばれました。それぞれの地域がそれぞれに一枚岩になって、だんだん変わってきたんです。
平澤
確かに大磯をはじめ、その辺りのエリアは、かつては近郊ながら優雅に過ごせるリゾートというイメージがありました。そういう意味では、神奈川県には観光資源がものすごくいっぱいありますね。
黒岩
そうなんです。そもそも大磯は、吉田茂や明治の元勲たち、陸奥宗光、大隈重信、伊藤博文らの邸宅があちこちにあるところなんです。ちゃんと保存しているところもありますが、吉田茂邸は火事で燃えてしまって、伊藤博文の別邸だった滄浪閣(そうろうかく)は、非常に歴史的な建物にも関わらず、一時期、中華料理店になってしまっていた。これら全てを活性化したらすごい街になると考えていたところに、一つの風が吹いた。明治150年の記念事業として、明治の歴史を感じさせる街づくりをする「明治記念大磯邸園(仮称)」の話が持ち上がり、国から支援が出ることになったんです。吉田茂邸の再建はすでに終わっていますし、伊藤博文邸も再建できれば、街がガラッと変わります。もう一つ、東京オリンピックのセーリング競技を江の島に誘致したことも追い風になりました。ボロボロになっていた大磯プリンスホテルに、選手村として利用したいから改築してくれないかと何度も口説いて、結局、増築までしてもらった。スパも出来上がって、リニューアルオープンされました。これと「明治記念大磯邸園(仮称)」が結びつけば、大磯はもう一大リゾートです。
「いのち輝かせること」と「心豊かに生きること」
平澤
最後に、これからのフェイスに期待することをお聞きしてもいいですか。
黒岩
今日、ここまで話してきたことを整理してみると、ヒントがいっぱいありますね。フェイスは、エンターテインメントの会社だけれど、平澤さんは医療システム研究会でご一緒していたわけですし、ヘルスケアの面でも接点がありますよね。未病を、病気になったら治療をする白赤モデルとは違って、未病を改善するグラデーションモデルで大事なことは、楽しい、笑う、感動することなんです。これはもう医学の世界の話ではない。つまり、未病の概念、「いのち」を輝かせるという視点から見ると、エンターテインメントと健康の話は密接につながっているんです。
黒岩祐治さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
平澤
確かに。
黒岩
素晴らしい音楽を聴いて感動することでいのち輝く、ゲラゲラ笑っていのち輝く。そうしたエンターテインメントの力で「いのち」を輝かせることができるわけです。人間の実感では、それらは全部、繋がっているのがよくわかります。それを社会の仕組みとして、これは誰々の担当、誰々の担当って誰かが分けているだけで、本当はそんなことは関係ない。ですから、僕はフェイスこそは、本当に全部が繋がっている「いのち輝かせる産業」だと思っているわけです。是非、次なる飛躍を遂げていただきたいです。
平澤
今日は一気通貫でお話を伺い、全てが繋がっていることを本当に実感しました。
黒岩
では最後に、私からも平澤さんにお伺いしてもいいですか。第4次産業革命と呼ばれる時代、デジタル革命で世の中が劇的に変化するような時代に、これからどんな志向を持って進まれていこうと考えていらっしゃいますか。先ほども話した「未病」のコンセプトについても、ビッグデータの処理が可能になってきていることがその可能性を広げています。グラデーションのどこにいるか、全部データで出てくるし、食の情報、生活の情報、日常的な体の中の情報、遺伝子情報も含めてビッグデータを処理してAI技術と合わせれば、各人に対する未病改善のアドバイスができるようになるかもしれない。そうすると、病院のモデル、医療のモデルそのものがこれまでと大きく変わってくるかもしれない。そんな革命的な時代の流れの中で、平澤さんが何に関心があるのか知りたいです。
平澤
簡単には答えられないけれど、一言でいえば、「心の豊かさを作るにはどうしたらいいか」、それが私の中の一つのテーマです。今、黒岩さんがおっしゃったことって、きっと近い将来、実現されていくでしょう。そうすると、AIなどの進歩により職がなくなる領域が増え、「人が働かなくてもいい」時代になっていきます。このことを真面目に考えなくてはならない。なぜなら、これまでの世の中とは全く異なる価値観の世界に入っていく、価値観の大転換が起こるということだからです。それは、生きていくために働かなくてはいけない人も、お金に余裕がある人にとっても同じ。誰もが価値観の変容が必要とされてくる。そういう中で「心の豊かさをどう作り上げていくのか」を真剣に考えないといけない、と思うわけです。これは、「いのち」の話と密接な話ですから、先ほどの黒岩さんがお話しくださったことは、私にはものすごく響きました。
黒岩
流石です。「心の豊かさ」と「いのち輝く」は似ていますね。
平澤
まさしくあらゆる価値観が変わってくる時代に突入する中で、私たちは大きなテーマとして「豊かさとは何だろうか」ということを考え、心の豊かさを作っていく仕事を目指していきたいと思っています。
黒岩
本当に大きなテーマですね。期待しています。
平澤
本日は長時間にわたり、本当にありがとうございました。
黒岩祐治さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
黒岩祐治さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創

黒岩祐治さんプロフィール

神戸市出身。早稲田大学政治経済学部卒業後、フジテレビジョンに入社。1988年、『FNNスーパータイム』のキャスターに就任。報道記者やディレクター時代の経験を生かして自ら特集の企画・取材・編集を手がける。その1つである救急医療キャンペーン「救急医療にメス」が1989年1月から2年間にわたり放送され、この企画が救急救命士の誕生に結びつく。『報道2001』キャスター、ワシントンD.C.支局特派員、『新報道2001』キャスターを経て、2009年、55歳でフジテレビを退職。国際医療福祉大学大学院教授に着任。2011年、神奈川県知事に就任。2013年、内閣官房健康・医療戦略参与就任、2014年、内閣官房ロボット革命実現会議委員に就任(ともに全国地方自治体首長で唯一)。2015年、2期目当選を果たす(現任)。