長戸大幸さん × 平澤創 [対談]

STUDIO BIRDMAN
「スタジオ作らなくちゃまずい、どうしても作りたい、って。あの頃が一番辛かったですね。でも、あれができてからだいぶ変わっていったかな。」(長戸大幸氏談)

フェイス25周年記念Webサイトスペシャル対談企画 最終回【前編】

~大阪市・GIZA 社長室にて~
後編はこちら >>

何か作ろうと思って用意を始めてもいいものはできない。
長戸大幸さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創

バイオリンから始まり、高校でクラシックギター同好会を設立。実際はエレキギターで弾く。
平澤 創(以後 平澤)
今回はお時間いただき、本当にありがとうございます。音楽業界のレジェンドにご登場いただき、こんなに光栄なことはありません。
長戸大幸さん(以後 長戸)
いいえ、こちらこそ。
平澤
社長の情報、webで検索してもほとんど出てきませんよね。ほとんどベールに包まれているような状態で。何か戦略的な考えがあるのですか。
>長戸大幸さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
長戸
いやいや、別に何もないよ。自分は表に出るのが向いてないと思うからね。
平澤
そうですか。でも、社長のお話はいつもめちゃくちゃ楽しいですよ。
長戸
ああ、昔、「LOUDNESS(ラウドネス)」(1981年にデビューした日本のヘヴィメタルバンド)をやっている時に、「これで有名になったらまずいな」って思ったのはありましたね。僕は、演歌やジャズが好きで、ヘヴィメタやロックが好きだった訳じゃなかったから。そこからですかね。
平澤
なるほど。今日は音楽を始めたきっかけからお訊きしてもいいですか。今までそうした話、訊いたことがない気がする。
長戸
3歳からバイオリンをやってたんですよ。
平澤
バイオリンですか。
長戸
そう、親に習わされて。滋賀県の大津に有志の管弦楽団があって、その大津少年管弦楽団に入ってバイオリンをやっていました。
平澤
ご両親が音楽をやられていたのですか。
長戸
いやいや、両親は公務員で全くやってないです。たまたま子供の情操教育には、バイオリンがいいんじゃないかということで、近くのバイオリン教室に行きなさいって言われたんだと思う。気がついたらバイオリンを弾いていた。
平澤
普通、ピアノとかからはじめません?
長戸
いや、ピアノを買う金がなかった。僕の場合、バイオリン、中古で1,000円くらいですよ。
平澤
そうなんですか。
長戸
まあ、当時の1,000円はちょっと高くて、今でいう1万円くらいかな。
平澤
確かに昔は、ローン組んでピアノ買って、さらにお金を払ってピアノを教えてもらう、そういう情操教育でしたよね。いつまでやられていたのですか。
長戸
中学3年くらいかな。
平澤
結構やっていらっしゃるじゃないですか。
長戸
高校受験までやっていたような気がしますね。
平澤
へぇ。ある意味、僕のピアノと同じです。僕も3歳から中2までピアノ弾いていました。いつかの学校の合唱コンクールでピアノ弾いて、「平澤くん、ピアノ上手い!」って言われて「以上、終了」だったんで「このまま続けてもモテないな」と思ってやめたんですけど。
長戸
(笑)。
平澤
やめられたきっかけは。
長戸
中学の時は、もうジャズに凝ってて。マイルス・デイヴィス(マイルス・デューイ・デイヴィス3世:アメリカのジャズトランペット奏者・作曲家・編曲家)とか、セロニアス・モンク(セロニアス・スフィア・モンク:アメリカのジャズピアニスト)とか。
平澤
すでに中学の頃からですか。
長戸
シカゴジャズじゃなくて、そういったニューヨークのビバップ(Be-Bop)みたいなジャズにリスナーとして凝っててね。だから中学の時は、クラシックではなく、ジャズですよ。
平澤
じゃあ、ご自身の音楽のルーツとなると。
長戸
高校に入る1カ月くらい前にビートルズが登場して、高校1年の夏休みに「ポップスクラブ」っていうエレキ部を作った。どうしたらクラブが作れるかが生徒手帳に書いてあったから。でもなかなか認めてくれない。まずは、300人だか500人の署名がいるということで、署名を集めて。
平澤
集めるの大変ですね。
長戸
次に、クラブの先生を決めなくちゃいけない。
平澤
顧問の先生。
長戸
そう。僕、書道部だったので、近くのお寺に住んでいた書道部の先生に頼み込んで。その先生に、じゃがいもとかさつまいもとかスイカとかいろいろものを持って行ったりして。
平澤
(笑)。かなり政治的な動きしてますね。
長戸
そうそうそう。独身だった先生は、それにほだされて「やります」ってことになって。それでいけると思ったら、次に今度は部活をする場所がないって言われて断られた。さんざん探し回って、体育館の螺旋階段の上がったところに使えそうなスペース見つけて申請して、やっと通った。
平澤
そこまで手間かかると、かなり手前であきらめますよね、普通は。
長戸
そう、諦めます。次は、ギターを保管する箱がないと言われて。
平澤
ほぉ。
長戸
たまたま近くに閉鎖された市民病院があって、そこから大きな棚とかをリヤカーで運んできた。今、考えたら、どんな病気があるかわからないのに。
平澤
(笑)。でも面白いですね。そうした行動の一つひとつが社長の仕事の原点な気がする。
長戸
いやいやいや。それでサッカー部にも入ってて。
平澤
あははは。すごいですね。気が多いっていうのも昔からですね。
長戸
サッカー部の1年先輩で補欠だった人とビートルズだとかの話で気があって「バンド組もうか」ってなった。それでバンドを組んだことがすべてのきっかけですよ。
平澤
その時はギター?
長戸
そう。僕はバイオリンをやっていたから、ギターが割りと簡単にできたんで。母親に高校入学記念に何が欲しいか訊かれて、ギターを買ってもらった。今、考えたらクラシックギターなんだけど。
平澤
なんでエレキじゃなかったんですか。
長戸
当時、よくわからなかったからね。ギターが欲しかっただけで。ただ、学校では、エレキって言ったらまずいと思って、クラシックギターの同好会にしたんですよ。その方が通りやすいと思って。
平澤
なるほど。
長戸
それで、クラシックギターをマイクを入れてエレキで弾くという。
平澤
(笑)。それはまた斬新なアイデアですよね。
長戸
めちゃくちゃなんですよ。一応、先生の前では「禁じられた遊び」とか「アルハンブラの思い出」を弾いて「こんなんですよ」って。それで信頼させて、テケテケテケテケって、エレキでね。
>長戸大幸さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
平澤
(笑)。結構、悪ですよね。
長戸
それから、また親に頼んで8,000円のギターを買ってもらった。それが最初のエレキギター。
平澤
バンドのメンバーは、ちゃんとビートルズと同じ4人、揃ったんですか。
長戸
やってくれる人がいなくて、無理やり。ドラムを教え、ギターを教え、ベースを教え、って、全部教えましたよ。
平澤
え?教えてってどういう意味ですか。
長戸
いやぁ、僕、器用だから見よう見まねで。何度も見て、多分、ギターはこうやって弾くだろう、ベースはこう、ドラムはこうなんじゃないかとか。
平澤
なるほどなるほど。なんかわかります。社長ならそういうことを全部やってしまうってありえますね。
自分がリーダーとしてバンドメンバーを集め、
デビューする頃にリーダーが抜ける、
それがプロデュース
平澤
プロデューサー、指揮者もそうですけど、巧拙は別にして、全ての音源を自ら弾けたり、知ってないと、作れなかったりしますよね。
長戸
まあまあ。簡単にいうと、自分がリーダーとしてバンドメンバーを集めて、デビューする頃にリーダーが抜ける、それがプロデュースだと僕は思っていますけどね。
平澤
その話、この間、教えていただいて、ものすごく納得しました。
長戸
僕は高校1年からバンドを始めて、辞めるまでに7つくらいバンドをやったけど、どれもバンドリーダーなんですよ。
平澤
その役割なんですね。
長戸
いや。なぜかというと、うちのチームから引き抜かれるやつはいても、俺を引き抜くやつはいなかったんだよ。要するに誘われなかったの、誰からも。仕方なく、引き抜かれて解散するたびにバンドを作っていたから、全部バンドリーダーだった。
平澤
(笑)。性格の問題?。
長戸
いや、多分、うまくないんだと思う。うまいギタリストを入れて、カッコいいボーカルを入れて、うまいキーボードを入れて、うまいドラムを入れると、綺麗に引き抜かれるんです。
平澤
すごくわかります。
長戸
だから、どうやったら引き抜かれなくなるかとか、引き抜かれないうまいやつを探すとか、そのための方法はどうしたらいいかっていろいろ考えながら。
平澤
それ、めちゃくちゃ難しいと思うんですけど。
長戸
うーん。例えば、引き抜かれるほどはうまくないとかね。
平澤
なるほど。気持ちテクが足りないとか。
長戸
そうそう。
平澤
確かに引き抜かれるほど上手じゃないけど、組み合わせたらめちゃくちゃ光る人とか。そういうことですよね、きっとね。
長戸
ありますよね。それで21歳くらいでやめた。もともと20歳になったらやめようと思っていたんだけど。当時ね、やっぱり音楽では食えなかったんですよ。
平澤
そうなんですか。逆に当時の方が音楽で食べていけそうな。
長戸
いやいやいや、まったく食えない。友達が何人か、「オックス」(1968年デビューのグループ)とか、グループ・サウンズになったけど、みんなロクな給料もらってなかった。1年先輩のサッカー部の人も東京に行って「好きさ好きさ好きさ」の「ザ・カーナ・ビーツ」(1967年結成)に入ったけど、給料あんまりもらえていなかった。だから、音楽では食えないのかなと思って、洋服をやりだした。
平澤
洋服?
長戸
京都「BAL」でブティックを始めた。
平澤
「BAL」わかります。それは何歳の時ですか?
長戸
21歳。
平澤
21歳?
長戸
うん。20歳か21歳。
平澤
え?高校卒業されてから何をされていたんですか。
長戸
一応、大学入ったんだけど、第一志望、第二志望、第三志望に落ちてたから、一旦、第四、第五志望だったところに席をおいて、受け直そうと思っていたんだけど、学園紛争の最中でね。そもそもどうして東京に行ったかというと、当時グループ・サウンズはやはり東京だったから。だけど、行ったらグループ・サウンズのブームは終わっていたんですよ。
平澤
そうなんですか(笑)。
長戸
それで「今は京都でフォークだ」、「ザ・フォーク・クルセダーズ」だと、その仲間に入りたいと思って「ああ、京都行こう」と。そこで「バンバン」(1975年 『いちご白書をもう一度』がオリコン1位を獲得)とか、それから「ジローズ」(1971年に「戦争を知らない子供たち」作詞:北山修、作曲:杉田二郎が大ヒット)に会って、北山修とか、何人かの連中と親しくなった。それで、今度は、さっきのサッカー部で1年先輩だった人の弟を呼び込んでフォーク・グループを作った。
平澤
なるほど。何人のグループですか。
長戸
同志社大学の学生だった2人と僕の3人。レコードも出したんですよ。京都でチャートまで上がったりして。
平澤
へぇ。当時は、今みたいにインディーズがないから、ちゃんとしたレーベルから出したってことですよね?
長戸
そうそう。
平澤
なんていうバンドなんですか。
長戸
「赤と黒」。
平澤
「赤と黒」?聞いたこと…
長戸
ないでしょ。
平澤
ない。
長戸
聴かなくていいですけど。
平澤
聴かなくていいけど、聴きたいじゃないですか。
長戸
いやいや。
平澤
社長の周りのアーティストの話や、側面の話は多いけど、社長ご自身の話はあまり知らないから、すごく興味がある。
>長戸大幸さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
長戸
高校3年間は「スパイダース」とか「タイガース」とかグループ・サウンズですよ。
平澤
背景がそういう感じだったですよね。
長戸
それが大学入って「ボブ・ディラン」(アメリカのミュージシャン)とか、「ザ・バーズ」(アメリカのフォーク・ロック、カントリー・ロック・バンド)とか、そういうフォークに変わって行って、関西でフォークロックバンド作った。
平澤
ああ、なるほど。それが「赤と黒」。
長戸
テイチクレコードで。いずみたくという作曲家が新しいレーベルを作るにあたって、その第一弾として俺たちに来いということになって。その時のプロデューサーっていうか、ディレクター、それが立川直樹(1960年代後半からメディア交流をテーマに音楽、映画、美術、舞台など幅広いジャンルで活躍するプロデューサー)だったの。
平澤
なるほど。
長戸
僕も若かったけど、同い年だから、あいつも若かった。ところが、メンバーは現役で同志社行ってる友達だし、この世界に引っ張り込むのは悪いからレコードだけ出して、彼らの就職試験前に解散。僕は洋服屋をやったんです。
平澤
ちょっと現実になっちゃったんですね。まあ、大ヒットしたら、わからなかったかもしれないけど。
長戸
いや、大ヒットしてもやめてたと思うよ。それで、洋服屋をやってた時は、暇だったんで、ついでに洋裁学校にまで入った。
平澤
え?洋裁学校に入った?
長戸
そう、入った。京都に藤川学園(現・京都造形芸術大学)っていうのがあって。市役所前の本能寺会館っていうところ。
平澤
本能寺会館、ああ、わかります。
長戸
そこでやってたの。
平澤
ほお。
長戸
そこに2年間、通いながら、寺町に注文生産のアトリエを作って、ブティックとそれでなんとか食えてたんですよね。
平澤
いや、食えてるってすごいですよね。完全クリエイティブじゃないですか。
長戸
そうそうそう。20歳か21の男が食えているんだからね。
平澤
いや、だからすごいですよ。普通はどこかに属すじゃないですか。団塊の世代。
長戸
いいや。当時の仲間は、だいたい歳が一緒。ということは、20歳、21くらいのやつらが会社をいっぱいやってたってことですよ。
平澤
原宿、裏宿的な要素を感じますけど、当時、そうしたことする人ってあんまりいなかったんじゃないですかね。
長戸
何度も出てくるけど、サッカー部の1年先輩だった人のセンスがよかったっていうこともあった。高校時代からロンドンのカーナビー・ストリートのファッションとかに興味があったし、ヨーロピアンの洋服、要はジーパンじゃなくてドレスシャツとか、少女漫画に出てくるような男の服とかに興味があったんですよ。
平澤
そうした情報は、今はインターネットがありますけど、当時はどうやって入手したんですか。
長戸
「ミュージック・ライフ」とか、そういった雑誌は、数少ないからこそ、ものすごく沸くわけで。
平澤
情報が氾濫しているとよくわからなくなるけど、情報が少なければ少ないほど感性が研ぎ澄まされるっていうのはありますからね。
吉田拓郎の「こうき心’73」に出逢い、
すべてを捨て、再び東京へ。
長戸
洋服屋をやってたいたある日、23かな、25の時かな。吉田拓郎の「こうき心’73」という曲を聴いて、ショックを受けた。たった3分の曲。それで全部辞めたんです。
平澤
それはどうしてですか。
長戸
「51」っていうトランプゲームあるでしょ。場にあるカードと手持ちのカードを総入れ換えする時あるじゃないですか。要するに、あの気分だったの。
平澤
たった一曲で?
長戸
一曲で。
平澤
え、音楽聴いて変わっちゃったってこと。
長戸
歌詞、歌詞。
平澤
歌詞で?そうなんですか。
長戸
それを聴いた途端に電撃が走ったんですよ。いや、本当に。当時、婚約してて、結納も全部済んでたんだけど。
平澤
「俺はもう、こういう人生を歩んでいくんだろうな」と思っていたにも関わらず。
長戸
そうそう。
平澤
拓郎さんの曲、一曲、一発で。
長戸
もう全部、捨てた。
平澤
捨てた(笑)
長戸
極端にいうと、友達も全部捨てて。
平澤
本当ですか。
長戸
今回、関西に戻ってきたときもそうですよ。全部捨ててきましたから。こっちに戻って来たのは、もう25年も前だけど。
>長戸大幸さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
平澤
25年前って、ちょうど偶然にも、私が25歳で起業した年だから、1992年か、1993年くらい。ビーイングがピークの時ですよね。
長戸
そう、ちょうど僕がいなくなった頃(笑)。もう辞めようと思って、綺麗に辞めた。
平澤
話しを戻して、拓郎さんの曲、一曲、一発で全てを捨てた20代の時の話しを訊いてもいいですか。
長戸
そう、本当に全部捨てたの。100万円と車1台だけで東京に出て行った。
平澤
すごくないですか。
長戸
いや、そうでもない。
平澤
でも周りはびっくりしますよね。「拓郎の曲、一発聴いてさ」って言うわけにはいかないし。
長戸
それは、言わないで、単に「東京行ってくるわ」っていうことで。
平澤
あははは。
長戸
当時、東京にほとんど友達はいなかったんだけど、もう京都のやつと連絡とるのよそうと決めて、新しく電話帳買ってきて、まったく真っ白の電話帳を1年間でどのくらい埋めれるかって。当時、25、26歳くらいだったんだけど、俺、若く見えたんですよ、20歳くらいに。だから、アメリカに行くにはジュニアで、まだ早いって言われていたので、もう少し日本にいてからアメリカに行こうと思って。
平澤
じゃあ、アメリカに行く手前の階段として、東京に行った。
長戸
そう。大学も東京だったにも関わらず、東京を知らないのはおかしいだろうと。
平澤
うんうん。
長戸
でも僕ね、東京から京都に行く前、20歳そこそこで音楽やる気を無くしたのは、今言うと可笑しいけれど、わかりやすくいうと「金のためとか商売のために音楽やるのは、俺にとってはとてもじゃないけど無理だ」と思ったからなんだよね。なんのためにやるのか、って。お金を儲けるため、商売のために音楽やるんだったらやめようと。音楽はやっぱり音楽なんで。
平澤
いやいやわかりますよ。それで一旦辞めて、アパレルやってるのに。
長戸
やってるのに、吉田拓郎のたった一曲で。
平澤
(笑)。
長戸
いや、本当の話なんですよ。それで東京に行って、吉田拓郎とかに会いたいな、と思って。
平澤
あはは、そういうことなんですか。
長戸
いや、拓郎に影響を受けているから「拓郎に会いたい」「海外に行く前に会えたら」と思って東京に行ったの。
平澤
えっ?
長戸
でも何にも伝手がないからね。
平澤
まずは何を足がかりにされたんですか。
長戸
まず、100万円と車1台持って東京行って、最初に、ちょっと頑張って乃木坂の「桂由美ブライダル」(当時建設中)の隣のビル、当時、9万円のマンションに入居したんですよ。
平澤
それは何年のことになるんですか?
長戸
1974年かな。
平澤
すごく高いですよね。
長戸
高いです。でも1カ月も経たないうちにすぐに解約して。
平澤
1カ月?
長戸
その1カ月で何をしたかっていうと、まずタクシーの運転手と友達になった。友達いないから、タクシーに乗るたびに、若い運転手だなというタクシーに手を上げて止めてね。
平澤
へぇ。
長戸
それでタクシーに乗るたびに、運転手の電話番号を訊いてたの。「すいません、名前と電話番号教えてください」って。
平澤
(笑)。
長戸
当時、本を読んでいると、小説家になる前にタクシーの運転手やってたという作家が多かったんですよ。それで面白いんじゃないかと思って、タクシーの運転手と親しくなった。
>長戸大幸さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
平澤
やっぱりちょっと着眼点が違いますね。
長戸
それで、ある運転手に六本木の俳優座の隣のビルの地下にある絨毯バーを紹介されて。
平澤
ん?
長戸
絨毯を敷いた「絨毯バー」。大阪でも夜、弾き語りでバイトしてた。やしきたかじんと一緒だった。あの頃、彼も売れていなかったから。
平澤
たかじんさんとやってたんですか。
長戸
僕が休みの時は彼に頼んだりしてね。
平澤
お好きだったんですね、音楽が。
長戸
すぐにお金になるしね。東京へ行ってもバイトをしないといけない。弾き語りをしようと思うって言ったら紹介してくれて。それがたまたま月末で、今日が最終日だからすぐに「明日1日から来てくれって」いう話になって。でも今日までの人、要するに僕と交代する人が最後のステージで歌っているのを聴いたら、めちゃうまくて(笑)。どうしようか、と。
平澤
(笑)。「その人がめちゃ下手で自信出た」というのかと思ったら逆。
長戸
いやもう上手。それで、その人といきなり親しくなって。「時間あるか」「ありますよ」「俺が明日から行く店に一緒に行こうよ」って言うことになって、彼があくる日から歌う店に行ったんですよ。
平澤
次の店はどうでしたか。
長戸
そうしたら、そこで歌っているやつもめちゃくちゃ上手くて。
平澤
(笑)。
長戸
結局、最初に出会ったのは、後々「トランザム」(1974年にデビューした日本のロックバンド)のボーカルになった西濱哲男で、僕が「ポパイ・ザ・セーラーマン」を作った時の「スピニッヂ・パワー」って呼んだバンドのボーカルなんですよ。2人で行った店で歌っていたボーカルは、アンディ小山(小山真佐夫さん)だった。元は「シャープ・フォークス」(1963年に結成されたグループ・サウンズのバンド)のメンバーになった人。そのアンディ小山と行ったところにいたのが、後の「COOLS」(1975年結成、日本のロッグ・バンド)に入る佐藤(秀光さん)って、たった1日でその4人と会った。
平澤
すごいじゃないですか。
長戸
その日は、最初に会った弾き語り(西濱哲男)の家に泊まったんですよ。もう帰るところないから。
平澤
あはは。すごい。フットワーク軽すぎますよね。若いしね。
長戸
泊まった家、レコードの山だったんだけど、そのほとんどが販売されているものじゃなくてテスト盤。レコード会社からタダもらえるやつ。
平澤
タダですね。
長戸
「すごいなー、テスト盤」って言ったら、「友だちにビクターの洋楽に勤めているやつがいる」と。それが星加哲だった。星加ルミ子(音楽評論家・1965年~1975年音楽雑誌「ミュージック・ライフ」編集長)の弟でね。「面白い!俺、星加ルミ子よく知っている」って言って。だって「ミュージック・ライフ」読んで知っているからさ。
平澤
よく見て分かってるからね(笑)。
長戸
そう。そうしたら西濱が「本来2,000円も3,000円もするレコード、あいつはタダで手に入るのに俺には1,000円で売ってる。星加っていうのは悪いやつだ」って。
平澤
(笑)。なるほど、売ったらいけませんね。
長戸
僕も欲しいから、会いに行ったんですよ、次の日に。
平澤
へぇ。
長戸
会いに行ったら、今度、西濱がトイレに行っている間に、星加哲が僕に「あの西濱って悪いやつだ、と。本来3,000円もするものを俺から1,000円で買ってる」って。
平澤
(笑)。
長戸
仲よさそうな、仲悪いような、面白いなって思ってね。それで星加に「どうして来たんだ?」って訊かれて、もともとブルースが好きで「ウィーピング・ハープ妹尾」が好きだっていう話をしたら、彼は星加哲と同級生で、ついこの間まで、西濱の家に居候していたっていうんですよ。
平澤
繋がりますね。
長戸
今は下北沢の「Zem(ゼム)」というブルース喫茶にいると聞いて、またあくる日すぐ行ってみたら、そこに妹尾がいたの。「すいません、妹尾さんですね」って軽く声かけて親しくなって、「お前さ、俺のマネージャーやらないか」って言われて、「ああ、いいですよ」って妹尾のマネージャーになったの。
平澤
二つ返事でポンポンと。
長戸
それが2、3日の間の出来事。夜は弾き語りして、昼間は妹尾のマネージャーをしてた。
バッと出会ってすべてが繋がっていった。
今の人との繋げ方、組み合わせ方のルーツがそこに。
平澤
それって東京に出てからどのくらいの期間のことなんですか。
長戸
1週間くらいだと思うよ。
平澤
今の話って、1週間の間に起きた話なんですか。すごい。急に繋がっていったんですね。
長戸
うん。何もないから、何でもOKっていう感じかね。
平澤
まあ、真っ白ですからね。
長戸
そう、真っ白。若いから。バッと出会って全部繋がっていく。妹尾のマネージャーとして、星加に「妹尾のレコード出そうよ」って言ったら、「いや、金が出ないから出せない」って言われちゃって。確かに有名なミュージシャン、バンドを呼んで来たら高いから、ゲストミュージシャンとしてギタリストだけ、ベーシストだけをバラバラに呼んだたら、それなりの金額でやってくれるからって口説いて、レコードを出したんですよ。その辺から、この業界に入っていった。
平澤
ああ、なるほど。今の人との繋げ方、組み合わせ方とか、その辺にルーツがある。
長戸
そうそう、あるある。
平澤
その組み合わせ方が仕事になっていったという感じですね。
長戸
でも変な人だと思われていたと思うよ、俺。京都から来た訳わからない大幸っていうやつがおる、みたいな。妹尾のマネージャー時代は、下北沢の隣の池ノ上の駅近に家賃8,000円の部屋を間借りしてね。そこを妹尾の事務所にして、妹尾のテスト盤を作った。
平澤
9万円の家賃の次に住んだ部屋が8,000円(笑)。下がりましたね。
長戸
いやいや、部屋なんかいらないと思ったの。そこに事務所を作った風に電話だけひいて、名刺を作って動いていましたね。
平澤
なるほど。
平澤
その時の肩書き、なんて書いていたんですか。
長戸
いや多分、事務所名と長戸だけですよ。
平澤
それだけ。
長戸
そう。当時、毎日夕方に放送されていた「ぎんざナウ!(1972年10月~1979年9月放送の素人参加型の生放送・情報バラエティ番組)」っていう人気番組があってね。
平澤
情報番組ですか?
長戸
意外とバンドが出ていて。夜の時間帯に放送されていたセブンツー(「ヤング720」1966年10月~1971年4月毎週月 - 土曜日朝放送のトークと音楽が中心の若者向け情報番組)みたいな。もっとわからないか、古すぎて(笑)。情報番組のような音楽番組のような。
平澤
なるほど。
長戸
その番組を見ていたら、ある日、月火水木金と曜日ごとに番組の最後に表示される制作会社が違うことがわかったの。
平澤
ほう。
長戸
ある日は某制作会社、あくる日は何とか、次の日は「オフィス・トゥー・ワン」とか書いてある。この人気番組に妹尾を出したら面白いんじゃないかと思って、まずTBSの某制作会社にわざわざ出かけて行って、そこにいた人に「すいません、妹尾のマネージャーなんですけど、テレビに出したいんです」って声をかけて。
平澤
うわ、すごいな。
長戸
全く相手にされず。
平澤
実は僕も似たようなことをやりました。僕が大学生だった頃は、テレビ音楽、BGMとかは、本当にレコーディングをしていたのが多かったんです。僕は完全打ち込みの走りで、自分で完パケまで作れる。それで仕事を取って稼ごうと思って、大阪芸大の2年生の時、テレビ番組のスタッフロールの制作会社をチェックして、担当者の名前を調べて、電話をかけて売り込みに行ってました。それで周りから「よく取れたね」とかいわれるような仕事をしてて。
>長戸大幸さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
長戸
そう、制作会社を電話帳で調べて売り込みにいく。
平澤
でも普通、そういうこと気にする人いないから。
長戸
次の日はまた違う会社、「テレビマンユニオン」だったかな、に行って。そうこうしているうちに、「オフィス・トゥー・ワン」に電話したんです。
平澤
すごいな。
長戸
そこで「妹尾のレコードをプレゼンしたい」って伝えると、相手が「妹尾くん知ってる、会ったことあるよ。ちょっと高円寺まできてくれ」って言うから、行きましたよ。それが月光恵亮(音楽プロデューサー。ビーイング創業時副社長)。
平澤
そこで繋がる。
長戸
ところが名刺をもらったら「オフィス・トゥー・ワン」って書いてない、有限会社ユニオン出版って書いてある。怪しいなと思いつつ。ところが彼が妙に僕を気に入ってくれて、どこに住んでいるんだっていう話になって。
平澤
うん。
長戸
レコードを作っている間に少し出世していて、その頃は原宿マンションっていうところにいたんですよ。
平澤
今度はどんなマンションでしたか(笑)。
長戸
「原宿マンション」っていうくらいだから、原宿で最初にできたマンション。エレベータは付いてないし、風呂のガスもマッチでボッと火をつけなきゃいけないようなところ。2DKの狭いところに、タクシーの運転手と俺の2人で住んでいて。
平澤
へぇ。必ずタクシーの運転手がどこかで絡んでいる(笑)。
長戸
そうそう。そこに月光が来て、わーわー騒いで。話をする中で、「お前、絶対に作曲家に向いているよ」って言われたの。僕も「確かに作曲やりたいんだけど」って言ったら、「じゃあ、うちで作曲家になれ」って。それで書き始めたの。
平澤
ほお、なるほど。
長戸
それでわかったんですが、ユニオン出版は、「オフィス・トゥー・ワン」の別会社だった。それで「オフィス・トゥー・ワン」に所属して、そうこうしているうちに、まだ売れない新しい作曲家が入って来た。それが今、アムウェイNo.1の中島薫。それ以外にも、都倉俊一とか、井上忠夫(後の井上大輔)とか、森田公一とか、錚々たる作曲家がいた。
平澤
そうですよね。
長戸
同じ頃、喫茶店で漫画雑誌を読んでたら、吉田拓郎と井上陽水と泉谷しげるが「フォーライフ・レコード設立、新人プッシュ」って書いてあるのを見つけて、拓郎のモノマネの楽曲作ってテープを送ったんですよ。
平澤
ほお。
長戸
そうしたら5万人の中から1位、まあ1位なのか2位なのか、3人くらいの中に選ばれた。
平澤
(笑)。すごい。
長戸
それで拓郎と陽水と泉谷と、それから小室等っていうやつの前で。
平澤
小室等(日本のフォークシンガー。フォーライフ・レコード初代社長)さんね。
長戸
歌わされて、速攻気に入られて、フォーライフ・レコードからレコード出そうっていうことになった。
平澤
これもトントン拍子ですね。
長戸
だけど、発売2週間前、テスト盤もできてたのに、急に泉谷が「俺はフォーライフを脱退するけど、大幸どうするんだ?」って言うの。でも一緒にいくのもなんだし、残るのもなんだしで、もう辞めたんです。
平澤
そうなんですか。じゃあ、そのレコード、幻の1枚じゃないですか。聴きたい。
長戸
いや、聴かなくてもいい。
平澤
(笑)。
長戸
そこから「もう表に出るのは絶対にやめよう」と思ったの。当時、拓郎とか陽水とか人気があったから「フォーライフ」っていう雑誌を作ってて、この雑誌の編集長だったのが森永博志。そしてテイチクレコードの新レーベルでレコード出した時に担当した立川直樹と森永博志が、今、FM COCOLOで人気No.1の番組(2015年1月~毎週日曜 16:00-17:00「RADIO SHANGRI-LA」)を2人でやっているんですよ。
平澤
へぇ。今ですか?
長戸
そう、私と歳一緒。
平澤
FMCOCOLOとか渋いですよね。
長戸
そうそう。栗花落 光(FM802、FMCOCOLO代表取締役社長)さんも歳、一緒なんです。
平澤
へぇ。栗花落さんも面白い方ですよね。
長戸
そう。それで話は戻るけど、「もう表舞台には出ない」と決めて。
作曲家からスタートした裏方仕事から
総合的なプロデュース業へ。
長戸
それで、何度も出てくるけど、サッカー部の1年先輩の人が、東京で「ザ・カーナ・ビーツ」の一員になって辞めた後、田辺エージェンシーに所属して、ユーミンの「アルファレコード」でレコードを出したって聞いて、ついて行った。
平澤
(笑)。
長戸
向こうは覚えてないかもしれないけど、無事、ユーミンに会えたりね。そこでもいろんなことをやりましたよ。石原裕次郎や和田アキ子、橋幸夫の曲を書いたり。
平澤
へぇ。でも普通、発売2週間前に幻と化したレコードがあったら、どちらかと言えば、リベンジしようという方に気持ちが動きません?
長戸
いや、後藤由多加(ユイ音楽出版で吉田拓郎、かぐや姫、長渕剛、中原めいこらを手がけ、フォーライフ・レコードの設立にも参加。現フォーライフミュージックエンタテイメント代表取締役社長)が辞めようっていうし、はいはいって感じ。まあ、もともと拓郎に会いたかっただけで、レコードなんか出す気なかったしね。
平澤
すでに目的達成してたということですね。
長戸
まあまあ、7、8割くらいの達成。
平澤
なるほど。
長戸
新人バンドでツアーさせられて「すいません、長戸大幸です、今からやります」って、すごく辛かったし。
平澤
(笑)。
長戸
作詞・作曲・ボーカルですよ。原田真二(1977年、吉田拓郎プロデュースによりフォーライフ・レコードからデビュー)が出る少し前のこと。
平澤
ああ、確かに向いてなさそうですね、そういうの。
長戸
全然向いてない。後藤由多加をはじめ、後ろにいる連中の方が格好よかったし。
平澤
そうなんですか。
長戸
すでに28歳になってたし、「いい年してやってられないな」くらいの。
平澤
それでもまだ28歳なんですけどね。
長戸
いやあの頃は、自分の意識からすると、28歳はもうおっさんでしたね。今、僕ら歳とっているから、28歳って言ったら若いけど、20歳からブティックやってたしね。
平澤
確かに。それからはもうずっと裏方、作曲家として活動されてましたし、普通はそのまま作家としていくじゃないですか。
長戸
いや、もう作家なんて俺は恥ずかしいというか、だってone of themだもの、作家は。結局、トータルで作らないと。ある時、めちゃいい曲を書いて持っていったら、ものすごく不本意なタイトルと歌詞をつけられて、その時「曲だけ渡したらダメだ。詞も曲もアレンジも全部やらないと」って思った。詞もアレンジも気になる。だから、その経験のおかげですよ。
平澤
なるほど。職業作家だったら「まあ、いいか」って流しちゃうかもしれない。
長戸
まあ、流すほどの作曲の才能がある人はいいけど、俺は絞り出してたから辛いんですよ。あまり作曲したくないの。できるけど、したくない。それは30歳の頃かな。
平澤
それで会社を作ろうと思った。
長戸
そうそう。「オフィス・トゥー・ワンを辞めさせてくれ」って言いに行って。そうしたら社長に「何やるんだ、お前」って言われて「自分の会社やりたい」って答えたら、「俺が金出すからやれ」と。結局、オフィス・トゥー・ワンの社長が100万円、阿久悠も気に入ってくれて100万円出すと。
平澤
本当ですか、すごい。
長戸
いや、すごくない。それで俺100万円、計300万円で作ったのがビーイングなんですよ。
平澤
へぇぇ。そうなんですね。いやいやいや、すごいですよ。だって当時の阿久悠さんってやっぱり。
長戸
そりゃそうだ。考えたらすごい。
平澤
30歳に「金出したるわ」っていうの、今は珍しくはないけど、当時はすごい。
長戸
阿久悠は本名、深田公之(ふかだひろゆき)っていうんだけどね。ところが、オフィス・トゥー・ワンは9時から営業に出ちゃうということで、会議の時間が朝8時から9時って決まってて、当時は5時半に寝てたんで、8時に関連会社会議に呼ばれるのはめちゃ辛いんですよ。今は朝5時半に起きているから全然平気なんだけど(笑)。会議の前の日は徹夜して8時の会議に出て、9時に家に帰って寝てたんですけど、それが辛くて1年で辞めることにした。
>長戸大幸さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
平澤
朝の打ち合わせは辛いですね。
長戸
しかも売れないから、こっちも、向こうも、身が入らない。それで「悪いけど、このままいっても赤字が増えるだけだから、株を買い取らせてくれ」と社長と阿久さんが出した200万円分だけ買い取って独立して、そこから本気になった。ある日、ちょっと有名だったカメラマンと友達になって、彼に呼ばれていったパーティにめちゃくちゃ可愛い子がいたから声かけたんですよ。それで、明日、近くの喫茶店で会おうということになったの。あくる日、ちょっと遅れていったら、彼女、喫茶店で勉強していて。パッと見たら、なんと中2の教材やってたの。
平澤
ほう。
長戸
それが三原じゅん子だったの。
平澤
ええー(笑)。そういうきっかけだったんですか。
長戸
そう。それがきっかけ。どこからか来た話じゃない。
平澤
三原じゅん子さんの曲、書いていましたよね。
長戸
書いた。1曲目は「セクシーナイト」、2曲目が「ド・ラ・ム」。あれ、なんで「ド・ラ・ム」なのかわかります?
平澤
わからないです。
長戸
サザンの「私はピアノ」をパクって作ったんです。
平澤
(笑)。なるほど。
長戸
「私はドラム」っていうタイトルにしてくれって言ったんだけど、「私は」はなくなって「ド・ラ・ム」になったの。
平澤
本当だったら「私はドラム」だったんですか。
長戸
そうそうそう。「おどるポンポコリン」も同じ。あれもフジテレビから依頼された訳じゃなくて。
平澤
え?
長戸
ある時、喫茶店で読んだ漫画がめちゃ面白くて。それが「ちびまる子ちゃん」なんだけど、編集者に作者のさくらもももこさんに会いたいって当たったけど断られて。どうしたらいいかなと散々調べてたら、さくらももこさんは当時ちょっと有名だったスプーン曲げの清田少年(清田 益章さん)っていたでしょ。
平澤
いましたね。
長戸
その人と仲がいいっていうことがわかったの。それで清田を調べたら、彼はヘヴィメタが好きで、僕、ちょうどLOUDNESS(ラウドネス)やってたから、清田と親しくなれると思って会ったの。
平澤
なるほど。
長戸
それで清田と親しくなって、「さくらももこさん好きなんで今度会わせてよ」っていうことで会えたの。
平澤
あはは(笑)。
長戸
さくらももこさんと会っていたら、「実はフジテレビから番組の話が来てる」っていうから、「じゃあ、それオープニングとかエンディングとかやらせてよ」っ、俺も込みの話にしてもらったの。フジテレビは「いやいや、なんだこの長戸っていうやつは」という状態のままいったんですよ。
平澤
それもすごいですよね。
長戸
すごいでしょ。原盤はアニメ制作会社で、出版はフジテレビで、俺は何もいらないって言ったから、ポンポコリンがいくら売れようが、俺にはいくらも何も入ってこない。作家として何も入っていないし。
平澤
そうなんですね。ちょっと意外。
長戸
次のアルバムからは入ってくるけどね。
平澤
なるほど。
長戸
タイトルの話でいうと「おどるポンポコリン」も最初は「おどるチンポコリン」やった。
平澤
それ聞いたことあります。
長戸
うん。全部、そんな、めちゃくちゃ。確かに「止めさなさい」って人もいたね。
ネーミングに対するこだわりは高校生の時から。
平澤
ネーミングという話でいくと、ビーイングっていう社名、画数は濁音付きの13画じゃないですか。
長戸
うん、よくご存知で。
平澤
僕、割と変に覚えていて、こだわるんですよ、そういう話。
長戸
僕は高校の時に、なんでビートルズやビーチ・ボーイズやエルヴィス・プレスリーが流行っているんだろう、なんで薬は「アリナミン」とか「ビオタミン」とか「ン」って付くんだろうとか、いろいろ考えてて。
平澤
そんなに昔から。じゃあ、高校の時の気づきですか、ネーミングのルーツは。
長戸
そう。最初に作ったスタジオの名前「バードマン」もそうですけど、濁音付きで、長音があって「ン」がつくのがいい、と。ビトルズじゃダメで、ビートルズ、エルヴィス・プレスリじゃなくてエルヴィス・プレスリー、ビーチ・ボーイズだからいいと。
平澤
濁音付き13画って、数奇な運命と辿るということもあるじゃないですか。ものすごく強くもあり、波が立つ。ソフトバンクとかライブドア。
長戸
うん。バーニングも。
平澤
ああそうか、バーニング、そうですよね。
長戸
それから、なんでベンツ、なんでBMW、なんでポルシェって、いろいろ考えた時、どうもアルファベットにイメージは関係しているって思いついた。それで、Bは男性っぽい。雑誌も「ビッグボーイ」とか、車もベンツとかBMWって男性っぽい、男性のカッコいいって感じでしょ。女性っぽくてカッコいいのはS。シルヴィアとかそうだし。
平澤
なるほど。シーナ・イーストンとか、テイラー・スウィフトとか。
長戸
そうそう。Pは、ポピュラリティなんでポップス、若者のポップな感じ。Mは大衆。だから、演歌はMがめちゃくちゃ多かったの。美空ひばりとか、三橋美智也とか。
平澤
都はるみ。
長戸
そうそう。森進一もそう。それプラス演歌は数字が多い。北島三郎とか五木ひろしとか。
平澤
ああ、なるほど。ヒットしている人たちはね。
長戸
まあ、松田聖子もそうだけど。あとは、Aがつくと新鮮な感じがするのよ。浅田美代子とか、天地真理、安西マリア、麻丘めぐみもそうだよね。若いときから、こういうことに凝っていて、会社作る時にはBから始めようとは思っていた。もうひとつの理由は、高校時代の同級生で京都美大と京都音大が統合して京都芸大(京都市立芸術大学)になったときに、シンボルマークを考えた男がいるんだけど、彼と2人で「BE企画室」を始めていたっていうこともある。その会社、今でもありますけどね。
平澤
へぇ。
長戸
それから名前が大幸だからビッグ、BIG MUSICって冗談で言っていたことがあって、オフィス・トゥー・ワンの社長、海老名俊則さんに会社を辞めるって言いに行った時に、海老名さんの「E」と私のビッグの「B」をとってBEingっていう社名にしますっていう話をして。
平澤
なるほど。じゃあ、割と迷うことなく、これいけるなと思って名付けたんですね。
長戸
Bと長音と「ン」が入っているし。まあ腹の底では、バーニングに似せていこうとは思っていましたけどね。
平澤
(笑)。アーティストのネーミングのセンスもすごく面白いと思っています。B.B.クィーンズは、もともとB.B.クィーンズ&シスターズだったでしょ。
長戸
そうそう。そしたら、シスターズがラテ欄に載らないって言われて。
平澤
長すぎて。略したらBBQ、バーベキューになってしまいますし。
長戸
それで今、ラテ欄ってどんなのが載りやすいのか訊いたら、「たま」っているでしょ、って言われて。
平澤
「さよなら人類」歌っていた人ですね。
長戸
そうそう。それでミケ「Mi-Ke」にしたの。
平澤
それは知ってる(笑)。Mi-Keのファンはこの事実を知ったら結構、衝撃を受けると思いますよ。
長戸
いえいえ。
平澤
だって「Mi-Ke」って音的に可愛いじゃないですか、なのに、もとは「たま」か、えーっ!みたいな。
長戸
「ドラ」っていうのも作ったしね。日テレのアナウンサー集めて。
平澤
ありましたね。アーティストのネーミングには、一つひとつストーリーがあるんですか?
長戸
いや、本人に考えさせるんだけど、なんかね、ピンとこないんですよ。カッコよすぎて、かえって目立たないというか。
平澤
なるほど。例えば「T-BOLAN」の「T」はどこからきたんですか。
長戸
それはね、BOØWYを作った時、みんなから「デビット・ボウイからとった」って言われて、本当はとってないんですよ。でも面倒臭くて「そうです」って言ってたんです。それで「ああ、BOØWYっていったら、デビット・ボウイって思うんだ」、だったら「T」ってつけたら「『T-レックス』のマークボランからとったでしょ」で言われるかなと思って。だから、「T-BOLAN」の「T」は、「T-レックス」の「T」です。めっちゃ簡単でしょ。
平澤
(笑)。いやいや、まあまあ、そうですが(笑)。
アイデアは思いつきではなく、
前から頭の中に持ってたことが
何かをきっかけにたまたま表出するだけ。
平澤
「B’z」は?
長戸
あのね、バンドを作るたびに商標を取らないとならないから、お金がかかって困っててね。
平澤
そうですね。本当にかかります。
長戸
レコードを取り、Tシャツを取り、飲み物を取りって、10個か20個取ると200万円かかる。B’zがデビューしたときは、日本たばこ産業が「JT」になり、国鉄が「JR」になった頃なんだけど、頭文字は三つからは大丈夫ということで、「A’z(アズ)」にしようって、そう呼んでた。間違ってエイズって読まれたら面白いなと思ってたの。
平澤
あえて、間違えたら面白いなって、そっち狙いだったんですか。
長戸
そうそう。でもテレビみたら、やたら「AZ」ってテレビCMが流れていて。ロート製薬の「AtoZ」が発売されて、みんなから「ロート製薬からとったでしょ」って言われるようになっちゃって。それでテスト盤も全部A’zだったのに、やめてB’zにしたんですよ。
平澤
テスト盤まで行ってたんですか。
長戸
当時はカセットでしたけどね。白テー状態。ちなみにTUBE(チューブ)も初め、僕がつけたのは「パイプライン」だったんです。それで「格好いいでしょ」って言ったら、みんな「格好いいですね、サウジアラビアみたい、クウェートみたい」って、石油管と間違えられた。
平澤
なるほど。
長戸
「サーフィンであるじゃん」っていったら、「今、サーフィンは、パイプラインって言わない、チューブライディングだ」って言うから、それじゃあ、チューブにしようってことにした。あれこそテスト盤も全部、パイプラインになっている。
平澤
なるほど。
長戸
当時のソニーの担当者だったディレクターさんには、中部地方とか中古(ちゅうぶる)とか、散々嫌味を言われて。
平澤
それでも押し切った。
長戸
菅原さんからは「キャプテンクック」って案が出てきて、一旦、キャプテンクックになりかけた。でも俺がキャプテンクックはやめて欲しい、って。
平澤
(笑)。ちょっと間抜けですよね。
>長戸大幸さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
長戸
それで俺が突っ張って、結局「TUBE」になったんだけど、今度は東芝からクレームが来た。
平澤
ほぉ。
長戸
洋楽の「Tubes」と勘違いするからやめてくれって。それで悩んだ結果、「The TUBE」にして。
平澤
(笑)。そうでしたか。
長戸
だからデビュー盤は、「The TUBE」ですよ。それで3rdシングル「シーズン・イン・ザ・サン」の時に「The」をとったんですよ。
平澤
ああ、なるほど。すごくストーリーがあるけど、ギリギリにコロッと変わることって多いですよね。
長戸
メチャメチャ多い。
平澤
なんかギリギリのひらめきとかってあるんですよね。
長戸
うん。
平澤
なんかずーっと頭に置いてたら、パッとこう。
長戸
そうそう。前から頭の中に持ってたことが出てくる。たまたまタロットカードやってて「WANDS」になったとか、たまたまジェームス・ディーンの映画観てて「DEEN」になったとか、そういうことありますよね。
平澤
「ZARD」は?
長戸
ZARDはね、その頃、社員から「社長、外車乗ってくれませんか。中古でもいいから乗ってくれないと、俺たちが乗れない」って言われていたんですよ。それで「おどるポンポコリン」のヒットの後、ポルシェとジャガーとBMWとベンツの4台を買ったんです。それで初めてベンツを買って乗ったんだけど、ランプに書いてあった「HAZARD」の大文字が格好よくてね。
平澤
ほう。
長戸
ゴルフ行った時に周りの人に「HAZARDって格好いいと思いませんか」って訊いたら「ゴルフのハザード(障害区域)からとっただろう」っ言われたの。とってないんだけど(笑)。それ以来、しばらく忘れていたけど、ベンツ乗るたびに「この文字、格好いいな」と思っていた。なぜ格好いいのかなって分析して、1文字外した「AZARD」も格好いいし、2文字「HA」を外した「ZARD」も格好いい、と思って。
平澤
うんうん。
長戸
ZARDっていう言葉は英語にはないんですよ。ただし、BLIZZARDとか、WIZARDとか、LIZARDとか。
平澤
強そうな。
長戸
怪しい、あんまりいいイメージじゃないもの。これを可愛い女の子の名前にしたら面白いな、ウケるんじゃないかな、と思って「ZARD」にしたの。そうしたら、みんなに何て言われたと思います?「ZARDって意外とポップですね」って(笑)。
平澤
あははは。
長戸
意外とって言うけど「最初からポップですよ」って。どこが意外なの?みたいな。
平澤
いや、でもね、今のお話聞いても、常にアンテナ立ててるんだなと思いました。普通は、ネーミング決めようといったその時に考えるから、いいのが出てこないんですよ。
長戸
そう。俺は絶えず、これバンド名にいいなっていうのをいっぱい持ってますよ。今でも。次、会社名これにしようとか。やる気もないのに。お店の時はこれにしようとか。本当に全然やる気ないのに、カレー屋やるならこれ、とか、何をやるならこれ、とか、そういうのを絶えず。歌詞もこれ格好いいから残しておこうとか、格好いいと思ったもの、英語も全部書き留めて置いてある。
平澤
言葉帳ですね。わかります。
長戸
そういう中にバンド名も必ずあるんです。
平澤
一瞬聞くとパロディかなって思うけど、真剣にやってたら面白いですよね。
長戸
面白い。だってね、サザンオールスターズだってね、デビューの時から、なんでオールスターズなんですかっていう話。みんな不思議がってないけど、僕も最初「売れてもないのに何がオールスターズだ」って思ったの。
平澤
うん、なるほどね。
長戸
だってサザンオールスターズですよ。洒落てるでしょ。
平澤
うん、洒落てる。
長戸
彼らは秋にデビューしたんだけど、あの年のレコード大賞は「勝手にしやがれ」(沢田研二)か「渚のシンドバッド」(ピンクレディー)のどっちが獲るって言われてた時に、「勝手にシンドバッド」ですよ、デビュー曲のタイトルが。
平澤
それで、サザンオールスターズですからね。
長戸
だから最初から洒落なんです。
平澤
いや、でもやっている本人はすごく真剣ですからね、きっと。だから、面白いんだと思うんですよね。一歩間違えるとパロディになったり、まあ、いわゆるコミックバンドになるどころが、サザンオールスターズ、違いましたもんね。
長戸
フォーク・グループもそうだよ。「ザ・フォーク・クルセダーズ」ももとは、「ジャズ・クルセイダーズ」っていう有名なバンドがアメリカにあって、それを洒落でやっている。
平澤
なるほど。B.B.クイーンズも。
長戸
そうそう。これはB.B.キング(アメリカのブルースギタリスト、歌手、作曲家)でしょ。
平澤
(笑)。確かにそうですけど、組み合わせたらね、いろいろ出るし、面白いですよね。なかなか気づかないけど。話を聞いていて思うのは、やっぱり思いつきでポロって出てくるのではなくて、ちゃんと一本のポリシーっていうか、考え方があって、そこから溢れてくる言葉だから多分、反応するんだろうなって。
長戸
そうそう。さっきの「T-BOLAN」の話じゃないけど、みんなに「T-レックス」と「マーク・ボラン」でしょって。わかるように作ってるんで(笑)。
平澤
ああ、想像を掻き立てるみたいな。
長戸
「ああ、これ、多分Tーレックスと。マーク・ボランだよ」とか話すだろうな、と(笑)。
>長戸大幸さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
「GIZA Aスタ」
後編へ続く
いろいろ興味を持ってやってただけ。
こんなに成功するとは思っていなかった。
長戸大幸さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創

長戸大幸(ながと・だいこう)さんプロフィール

音楽制作会社ビーイング創業者であり、LOUDNESS、BOØWY、TUBE、B'Z、T-BOLAN、B.B.クィーンズ、WANDS、DEEN、ZARD、大黒摩季、倉木麻衣、GARNET CROWなど数々のアーティストをプロデュースし、ミリオンヒット曲を生み出す。今の音楽シーンに少なくなった楽曲重視の質の高い作品を送り出すために、現在新たなアーティストのプロデュースを積極的に行なっている。